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株式会社荻田建築事務所 - 社長の思い

1.事業継承、創業の思い

地域で不動産と建築業を営む家に生まれ、幼少期祖母にはとても可愛がられ何不自由なく育ち、何となくひかれたレールを素直に歩み、建築学科の大学を卒業しゼネコン施工管理の職につきました。実家にすぐ入らなかった理由としては、祖母の「他人の飯を食え」という言葉が印象に残っています。サラーリマン人生をスタートさせ、すぐに結婚そして長男が生まれ、建築現場の仕事は大変でしたが、やりがいも一杯で充実した日々でした。そんな中、親父が突然「忙しいから帰って来い」と言われました。仕事にも自信がついてきて、もう少し勉強したいと言いう気持ちもありましたが、そもそも既定路線の時期が来ただけと素直に実家の会社に戻りました。
親父は、「昭和」感満開の典型的なワンマン社長。自社の社員は親父にはほぼ逆らうことなく、反対意見=近々退社へのシグナルという場面を何度見たことかわかりませんが、私にも「わしの言うた通りにしろ。やったらうまくいく。」という言葉はよく聞きました。ただ、約5年間建築の「設計」「施工」を一貫した業務をすることで、巾広く「建築」について学ぶことができました。

そんなある日突然不動産担当社員の退社事件があり、いきなり「不動産」事業も手伝うことに。営業経験もないので最初はまったく慣れませんでしたが、不動産仲介・管理業もこなすことになります。管理につきものなのが賃料滞納、そんな時の賃料回収も大切な仕事です。今どきはあまり見かけなくなりましたが、当時は「払え!」「払えん!」などと怒声混じりによく言い合いしたものです。
ただ、よく考えてみると高圧的に交渉しても話はこじれるばかり。冷静に話しするとそれなりに相手も対応してくれる。こじれると訴訟費用などの余計な費用もかかるし、冷静に話しした方がイイ結果になることが多いことに気づきます。不慣れな不動産業でしたが、おかげで人との付き合い方を勉強させていただくことができました。

そんなある日賃貸物件の相談の連絡があり、出向くと「あんたとこの物件はヤル気が出ぇへんねん」お客さまが最初何が言いたいのか、まったく解りませんでした。ただ自社の物件は確かに見てみると、古い!汚い!暑い!寒い!ヤル気が出ないのも理解できます。他社物件を探してみると、新しくて見た目もシャレてる物件があり、紹介するとすぐに成約。その時に芽生えたものが今につながっていると思います。

また、貸工場・倉庫・住宅のほかに貸店舗も扱っていました。最初はまったく繋がりを感じることはありませんでしたが、長く勤めていると近所の工場の社長さんらが稼ぐと家族や社員に外食でご馳走していることに気づきます。ただ単に業務をこなしていると気づかなかったことが、地域と関わりをもちながら仕事するようになると、その地域自体が大きな輪で繋がりながら共生していることに気づきます。「地域」に貢献できるような仕事がしたいと思い始めたきっかけでした。

そんな時、大学時代の友人から紹介され「なにわあきんど塾」に入会しました。経営の勉強なんてよく解りませんでしたが、何となく自分の世界が広がることを欲していたのかもしれません。みんなと仲間になれる自身もまったくありませんでしたが、思い切って飛び込んでみると、自分の世界の狭さを思い知らされます。今までは稼げばイイとしか考えてなかったですが、いろんな授業で新鮮な刺激を受け、若手経営者仲間もたくさんでき、毎週楽しくてしょうがなかったことを思い出します。自分の中の何かの歯車がカチッと回り始めたのかもしれません。そんな楽しい時間もありましたが、会社に戻ると親父との葛藤、家族に目を向けると元妻との葛藤。どうしても元妻とは折り合いをつけることはできず、残念ながら離婚することになりました。

なにわあきんど塾を卒塾してから、何か次の出会いを求めていたと思います。中小企業家同友会へ入会することになります。ここでも何かわかりませんが、自分の感じる何かがあるように思えました。勧められるがままに「経営指針確立成文化セミナー」を受講することになります。そもそも経営者としての覚悟もなく、なんとなく跡取りだから経営者の卵みたいな安易な考えで経営者気取りをしているのを見透かされます。
経営理念をつくる1泊2日の研修で、理念をひねりだそうと思いますが何も出てこない。二日目の最後の最後思わず「悔し涙」が溢れました。その日は情けない気持ちで一杯になりましたが、逆に自分の弱さをさらけ出すことができて、人の自分自身を出せるようになったと思います。
そんな中、夢中になれたことにマラソンがあります。走りながらいろんなことを考えながら自問自答しますが、思い切り走って汗をかくことで前に進む気持ちになれたように思います。気が付けば100Kmウルトラマラソンに完走できるようになり、少しづつ自分の中に自身がついて、親父との葛藤もどこかで区切りをつけ、人生の転機が近づいてきているような気がしました。

ある日親父との大ゲンカ。母親の反対はありましたが、親父の考えとは違う自分が目指す会社を起業することになりました。とはいっても何の準備もしていない。そもそも「経営理念」もほったからしの状態です。会社を設立するまで特にすることもない。約1ヶ月自分だけの理念をつくることだけに集中し、自分の考えを絞り出し、以前作れなかった理念を作ることが  できました。「よしっ!!腹が決まった」自分が目指すものが明確になりました。

2.守るべきもの

ワンマンな親父ではありますが、商売は誰よりも長けており、稼ぐ力は並外れていました。
カネ儲けに執着することに違和感はありましたが、稼ぐことへの貪欲さと能力は認めざるを得ません。また、あきんど塾や同友会などを通して団塊世代以降の方々とお付き合いさせていただくと、戦後すぐの時代を生き抜いた方々と我々とでは大きなジェネレーションギャップがあることにも気づきます。
また、加えて親父にも祖父との葛藤があり、多才で派手好きだった祖父は金遣いも荒く、先祖より受け継いできた土地を簡単に売ってしまうようなところもあったようで、金銭面で祖母や親父たちは大変苦労したと聞いています。戦前から戦後そして我々の世代から若い世代の受け継いでいくもの、良いもの悪いものも含め自分なりに解釈し、大切に守るべきものは守る。それが自分の責任と考えています。

3.新しい出会い

新会社設立の前、最初の勤め先で同僚だった直美と20年ぶりに再会、そして結婚することになりました。彼女は、自分のいろんな思いを受けてとめくれて優しく和む空気を作ってくれる私にとって一番の理解者です。そして、建築の設計も優秀で最高のパートナーと巡り会え、新たな人生をスタートできることができました。本当に感謝しています。この出会いから、現代長屋プロジェクト「くらしを楽しむ古くて新しい現代長屋」が生まれました。ただの収益物件を建てるだけでは面白くないと考え、自分たちも住みなたくなる本当に住み心地が良いタテモノづくり。実際に長屋に住みながらほんまもんの住居の大切さを伝えていきたいと考えています。

4.経営の考え

これは、全て理念に基づくものです。

  • 我々は建物づくりを通して、顧客の永きに渡る「人生」に貢献し、ともに歩む。
  • 我々は自らの成長を信じ、自らを表現し続けることで、新たな「自身」を開拓する。
  • 我々は地域と共に暮らし、広く世界と結び、豊かな「未来」を想造する。

お客さまは長くタテモノと付き合いながら成長し、またタテモノはお客さまの想いをくみながらその役目をまっとうします。我々もそのお手伝いをしながら、成長します。未来の社員に、自分を思い切り表現しながら、一歩ふみだしチャンスを掴めることをさせてあげたい。そしてその先の豊かな未来を想造するそのための環境づくりを徹底的にやっていきたいと考えています。「想造」それは想いをカタチにする。まさに我々タテモノづくりの原点です。

5.自社固有の技術

前職での建築や不動産など多様な職種で働いた経験と地元への想いから「5K FACTORY」

「カッコいい」「快適」「環境」「空間」「効率」に優れた工場づくりに力を入れています。昭和の時代のモノづくりは「3K職場」と言われてきました。誰がそんな工場で働きたいと望んでいますか?誰だって快適な労働環境を望んでいます。地球環境にも貢献したいし、効率的に空間の有効活用。また、オーバースペックも避けながらリーズナブルで高付加価値FACTORYづくりを目指しています。

そして、収益物件として企画設計施工として手掛けた巽NAGAYAが「大阪市ハウジングデザイン賞」を受賞しました。工場・倉庫・テナントなど事業性物件に加え、地域の活性化にも貢献できる住宅づくりにも力を入れていきたいと思っています。企画・設計施工そして不動産事業も含めたトータル的な視点からのタテモノづくりでお客さまと共に歩んでいきます。

6.ビジョン

我が社の10年ビジョンです。

  • ZeroEnergy新社屋が完成し、ダイバーシティな雰囲気で活気があふれている
  • 5K FACTORY、NAGAYAブランドに続き新たな展開として高付加価値サービスが生み出されている
  • 地球にやさしいタテモノづくりを通して想像以上の提案力でお客様の人生を応援し、「たのもしい会社」になっている。

7.趣味

マラソン、ウルトラマラソン、トレールランニング、登山、バイク