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株式会社平和化研 - 社長の思い

社長の思い

平成25年11月、夫の会社の経理から社長就任。
それは、突然の出来事でした、就任1カ月前、3代目代表取締役 浦崎憲清が協会の慰安旅行の翌日急に倒れて、帰らぬ人となった。何もわからず、社員がたくさんいる中、会社を続けていかなくてはならないという思いでスタートしました。

3代目は、ワンマンであったが、男気のある社長であり、社員や社員の家族を思い会社を引っ張っていた。しかし、何を聞いても答えてくれた3代目がいなくなり、会社がうまく運営できなくなっていきました。私も経営の勉強もしていなかったため、答えてあげたい気持ちでいたが答えてあげることができず、歯がゆい思いでいっぱいでした。

そして、等々ストライキが始まり、全管理者が集合し、このままのやり方ではボイコットして会社を休みますと、十数人が事務所にやってきました。正直何も言えませんでした。その時に私を助けてくれたのが、3代目の妹(専務 福田百合乃)でした。専務は、別の会社があったにも関わらず、異変に気づき入社してくれました。

そこから、専務は初代 浦崎永三、2代目 浦崎トシ、3代目 浦崎憲清の教え「社員は宝物」ということを第一に考え、改革を進めていきました。反骨する社員を一人づつ、何度も何度も話し合い、現状の不満や希望を聞いて回ってくれました。段々と会社側と社員の間に信頼関係が生まれ、徐々に変化をもたらしてくれました。今考えると、3代目がいなくなり、社員は、先の見えない人生に怯えていたと思います。

その思いに気付き、専務は、改革を推し進めていき笑顔のある会社に変わっていきました。結果、社員自ら業界でNo.1を目指すという、1枚岩の会社になりつつあります。正直、私には、立派な経営戦略なんてすぐには考えられない。
それは、出来る役員・社員に任せて、自分ができることを精一杯やろうと思う。そして、第3工場の新設で莫大な借金。これをまず軌道にのせるのが、私にとっての一番の仕事。

それには、社員の「安全第一」、「健康第一」でこの3年で、人の問題、設備の問題解決をやり抜く。そして、あと7年で設立50年、その時には一人もかけることなく、みんなで喜び合いたい。そして、創業者、夫にも喜んでもらえる、平和化研でありたい。

専務取締役 福田 百合乃

専務の思い

本来この会社へ入る予定がなかった自分が先代の思い受け継いでいます。それは、母 2代目の浦崎トシの教えからスタートしました。

当時4歳の時に今の第一工場によく連れていかれました。「この工場を譲っていただいた思いがある工場やねん」なんでと答えると、譲ってくれたオーナーのご主人が事業道半ばで亡くなってしまってん。立派な人やったやで。お母さんは「亡くなった方の名前を一文字使わせて頂いて、社名に使いたいと申し入れしたいんや」そこで、”弘和”の和を取り入れて、平和化研という社名になりました。

母は、何よりも原理原則が正しい思いを経営に活かし、社員は宝物といつも話していました。そして、私が16歳の時から世の中の勉強をさせられました。

16歳で原付免許を取るのを母に許してもらい、喜んでいると母は、「今までは、親の責任やったけど、これから命の責任者は、自分になるんやで」まず、自分で保険(1万円)に入り、アルバイトするんやったら、家にお金をいれなさい。(3万円)それが条件でした。

当時バイトすると、5万円しかなく、手元に1万円しか残らない。これでは、アカンと何個も掛け持ちをして、気がつけば、10万円稼ぐぐらいになっていました。そして、18歳のとき、車の免許を取りたいとお母さんに相談したところ母は、35万円用意してくれました。やったと思った瞬間に机には、借用書が置かれていて、親子であっても金の貸し借りはきちんとせなあかん、月の返済は、8千円でした。返済が滞ったら、全額返済。そして、借用書に拇印をおしました。「心の底では、友達の親はみんなお金出してもらっているのに!!と心の中で叫んでしました。

そして、就職するためにインターン活動のため、バイトができなくるので、母に返済を持ってもらおうと思った瞬間、母は「バイトを休んでも月々の返済は4万8千円は、払ってもらうで」 例えば、アパート借りてて、リストラになったんで、家賃待まってもらうことできるか、そんな世の中甘くないで。「それは、そっちの都合あんたの都合や」その瞬間心の底で怒りを覚えたが、確かにその通りと認めた。今考え見ると商売の原理原則を教えてもらったと感謝しています。

そんな、母にも得意先が倒産し、会社が傾きかけました。母は、その日、私(当時22歳)を連れて税理士の先生ところへ相談に行きました。先生からは、いきなり社員の給料20%カット、ボーナスカットを実施してくださいと言われました。役員賞与をカットして社員にお金を渡してくれと、2代目はお願いしましたが、そこまでしたらあかん。とにかく、指示に従ってくれということでした。

家に帰り、百合乃、聞いたやろ。今、会社にお金がない、社員を守れないんや。私は、家族も社員も宝物やねん。だから、もしものことがあったら命と引き換えにしても、社員を守らなあかんねんと、いつも元気な母がしんみりとしみじみと言った。それが母との最後の会話となった。次の日、2代目は脳梗塞で倒れ、7日後に亡くなってしまった。奇しくも、母の保険金で会社が救われた。

母が亡くなり、すぐに父が倒れてしまい、介護生活となりました。大変な生活でありましたが、介護生活7年は自分にとって優しい父との生活は有意義でありました。そして、兄からも社員を守る大切さを学ばせてもらった。

兄は、当時、第2工場を建てるため、お金を借りようとしましたが、透析していたため、お金が借りれなかった。そんな時に兄から、すまんがお前が買った家を抵当に入れてお金を借りてくれと頼まれました。

最初は、なんで私がと思いながら、兄の会社に対する思い、信頼があったので何千万の借金を背負うことにしました。兄には、何が何でも成功してやとお願いだけしました。そんな、兄は毎日私に2、3度の電話をかけてきては、うまくいった話、うまくいかない話、愚痴やら逐一会社の出来事を話してくれました。今考えたら、結婚したての妹に借金させて申し訳ないという思いと何が何でもお金を返済するという気持ちが日々兄にあったと思います。

そんな兄が急に俺には、時間がないんや。52という数字が見える。何かあったら、あかんから準備しとかなあかんねん。俺の後ろに社員があり、その後ろに社員の家族がある。それはなんとしてもら守らなあかんねん。自分に何かあったらどうせなアカンか、パソコンに、全て書いてある。「そんなん言わんといて」と言ったが兄は、パソコンのIDとパスワードを告げてきた。そして、兄の予想通り、数え52歳で早い人生を終えてしまった。

それから、パソコンのことを思い出し、パソコンの中身は、責任感の塊のようなことが書いてあった。それと、兄が恐怖と戦っていることが、見えました。お兄ちゃん怖かったやろ、あとは私が引き継ぐと決心しました。その後、入社すると、不思議と社員の名前が全て自分の中で理解していることに驚いた。兄は、毎日電話することで、大切な社員の名前を無意識に教えていたんだなと思いました。

私は、この3人の思いを胸に入社時のストライキ問題も解決することができました。これからは、先代の思いと社員の思いを大切にして、みんなで描く夢を志に変えていきます。